降伏は、本当の幸福

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こんにちは〜

歯医者さんの三宅です!

久々の投稿になりますね(^^)

何故久々かというと、言葉って誤解?を招きやすいし

人の受け取り方によってそれぞれかなり違うからね〜

言葉の持つ影響力に信頼感を少し持てなくなったからなのかもしれないなぁ〜

これは、ここ最近、伝えたい内容が言葉の限界を超えている時に

頻繁に感じてきているジレンマでいます(^^)

言語化できない真実を、言語によって伝えようとするとき

とても窮屈な感じがするわけです

んんん〜っという感じです(´・ω・`)

でも、敢えて言語として直感をたよりに綴って見たいと思います

例えば、精魂込めて作れたお料理が、人それぞれの好みによって

美味しいにも、不味いにも、辛い、甘い、苦い、、

この何とかのスパイスが効いていてとか、

これとそれが微妙に絡み合い何とかの味わいに深みが、、とか

ここのこれがどうでこうで・・とか、、ってって

僕ら、個人がすぐにその料理を「解釈しよう」としちゃいます(^^)

それは、個人の持つデーターベースから抽出される思考によって理解されちゃうのです

だからその受け取られ様は、どのようにも受け取られるのと一緒で、

この記事の内容も

読まれた瞬間から

思考で理解しようとします

解釈しようとします

腑に落とそうとしています

読者の皆さん、、そうですよねぇ(^^)

思考の役割と言うのは、何かと何かを分けたり、レッテルを貼ったり

分類したり、区別したりするのですね

そして、もう一つは、我々「個人」は、

その思考とか知識とか経験を常に所有しようとします

料理が美味しいなら、美味しいという体験を瞬時に所有します

自分に起きている感覚として捉えます

でも、本当はその体験や思考は、ただ、生まれてきているだけで、誰のものでもないのです

僕(仮に僕という存在がこれを書いていると仮定した場合)が本当に伝えたいのは

実はその思考で捉えていくのとは、真逆の方向性のことをお話しているのですね(^o^)

本当は言葉というフィルターを通す前の向こう側の本当の現実を、伝えたいのです

真実はそちらから湧いてきます、というより常に「いまここに」存在しています

こちらの現実は、その表現に過ぎないのです

私達が普通見ているのは、それに対して色づけられた時間と空間です

何によって色づけられているかと言うと、「観念・信念・思い込み」です

つまりこの世の現実と言うのは、自分という思い込みが体験している

「幻想」もしくは「夢」のようなもの。。

自我が夢をみているようなものなのです

そして個人はその夢のストーリーを繰り返しを見ているわけです

個人の知識とか経験によって固められた思い込みの現実を常に見ていて、

そして何か「今」と違う「特別な何か」を探して

いつも何処かへ向かおうとしているわけです

この世に生きているほとんどの人が、過去、現在、未来の時間軸の中で

自分を中心としたストーリーの思考の中を生きているのが分かります

そこには、自分が歩んできたと思い込んでいる人生のドラマ、ストーリー、物語があるのです

それが毎日時とともに流れていくように感じるのが殆どの人の日常であり、

そこに何の疑いもなく自分の人生、自分の暮らしがあります

そして、人生の目的を探し、楽しみを求め、

それぞれの価値観に沿って何かを求めています

でも、よくよく感じてみると、

人は何かによって幸せになるのではない、、ということにだんだん「気づく」わけです

( 因みに、気づくということは、

いままで抱えていた自分の価値観、思い込み、観念が崩れてなくなって

真実が顕になることなんです

目からウロコ(観念)が落ちて気がつくのですね

だから、「気づく」と「思考による理解」と全く別のことなのですね・・)

幸せは、本当は自らの手の中にすでにあるもので、手を開いてみると、

今ここに、既に、あるわけなんですよ

だから、いくら周りを見渡しても、いくら探しても、、

何処にも無いわけなんです・・

それを探して行こうとしていくのが「探求」なんです

お金でも名誉でも地位でも成功でも温かい家庭でも恋人でも、、

それがたとえ真理であっても・・

それには、終わりがない・・

そして、多くの人はその探求で一生を終えて

「自分」という人生のストーリーが終わるわけですね。。

でも、終わりがないから、もう一回探しにここに来る

それが、輪廻です(^^)!

そして、探求そのものが分離、

つまり、自分があって世界があるという感覚を強めるという「自我の餌」になっているのです

そして、その分離感自体がそもそもの「苦しみ」というものを生んでいるわけです

全ての苦しみは、この分離感によるものです

そして、この分離感を強めるのは、「思考というエネルギー」です

ですから、思考をすればするほど、分離感は強まるのです

頭の中でああでもない、こうでもない、と考えを巡らせて、

大抵、大体は不安感・焦燥・孤独感をいだきます

これは、分離が強まるからなのですね

真実の「今ここ」から離れて、未来や過去に意識が行っている状態です

このベクトルと真逆のベクトルが、

分離の反対だから、「一体感」ですよね

それが、「感動」「統合」「愛」「ワンネス」・・

最初に言ったように、お料理の美味しさに「感動した瞬間」は

お料理と自分とが一体になっていて自分がお料理そのものになっているわけです

でも、すぐさまそこに思考というエネルギーがしゃしゃり出てきて

過去のデーターから言葉を探してきます

「何の味だろう?」「何が入っているとか、何の味に似ているとか、」

対象化して判断した瞬間に、お料理と自分とが分離してしまいます(´・ω・`)

人、個人というエネルギーは、

この対象化をほぼ全ての人、モノに瞬時に行って生きています

そうやって時間という幻想のなかに、ストーリーが生まれるのです

そして、この分離と統合の間をいったり来たりしているのが僕ら人間です

人の一切の苦しみの原因は、正にそこにあるのです!

ですから、例えて言うと、ちょうどこの現実の出来事と言うのは、まるでスクリーンで

自我の幻想の映画を観ているようなものなのです

映画のフイルムは自分の観念・信念・思い込みでその映しだされたものが、現実です

その中を自我が主演・監督・脚本全てをになって

四苦八苦しながら探求を演技しているのです

よくあることですが、映画の中のストーリー・出来事にのめり込んで、

映画の主人公があたかも自分のように錯覚して

すったもんだしているのが、日常の僕らですが、

そこから離れて、

あ、なーんだ!こりゃ~ただの映画じゃないって

我に返って「ほっとする瞬間」があります

映画の主人公と距離をおいてそこにスペース、空間を創る、、

それが、例えば禅、瞑想、気功、ヨガ、ダイアログ、内省、内観、
あるいは道などと呼ばれている手法ですね(^^)

これらは、皆自我の幻想から目覚める準備みたいなものです

自我からの解放は、自我自体ではできないですよね

何故なら、自分をなくすことは自分の意志ではできないからです

ちょうど、睡眠を寝てやろうと自分の意志でできないのと一緒です・・

でも、明かりを消して、穏やかに、静かに呼吸に意識を向けていると

それは自然にやってきます・・

自我はできるだけ降伏して、準備を整える、、

不思議な事に

自我の、降伏は、「本当の幸福」ですね。。

全ては、神の表れですから・・

何となく、、言葉ではなく、

感覚として伝わったでしょうか?

言葉になる前の感覚を楽しんでくださいね〜\(^o^)/

読んでいただき、ありがとうございます

つくづく、最近はもう本当に確信をもって

「病気は、お知らせか、本当の自分の選択」と言えます

次回はそのことを書きたいかなぁ〜

写真&執筆 三宅信義


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