そのまえに純粋であること。その2

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純粋であればあるだけこの世界は美しく愛にあふれていて
わたしたちは誰もが存在そのものが美しく完璧で例外なく
必要とされ愛されていることに気づくだろう。
それは世界平和へのいちばんの近道だと思う。

純粋であるには花や子どもたちと接する時の自分でいたらいい
という簡単なことをわたしたちはなかなかできない。

純粋とは、
「まじりけがないこと。邪念が全くないこと。ひたすら行うさま。」

では何かがまざると純粋ではない?
たとえ何かがまざったとしても純粋でいられる。いたいと思う。
さらに純粋さを際立たせられたらとも思う。

毎日の暮らしのなかでたくさんの出来事やひとに会う。
会えば少なからずも影響を受けまざるのは必須だ。

何度でも言うけれど(しつこさはとりえのひとつ。)
すべてはわたしたちの中にある。
わたしたちが感じることのできることはもともとは
わたしたちが持っている。
わたしたちの中にないものは感じることはできない。
ということは
どれだけまざり合ったとしてもともと自分の中にあるものなのだから
その純粋さには変わりはないはずだ。

また邪念は、邪念と感じた途端に邪念になるのだと思う。
邪念のない人などこの世界にいるだろうか。
そして何をもって邪念というのか。
子どもにも邪念はあるだろう。
その邪念をありのまま見せられわたしたちははっとし
恥ずかしさを感じたり、目を閉じたりする
自分の中にも確かにあるであろう言動に。

この陰陽のマークは誰もが一度は見たことがあると思う。
宇宙の構成から肉体精神の構成にいたるまですべては陰陽
二極のもので成り立っている。

白と黒が半分ずつ。
白が大きければ黒も大きくなる。
陰陽のバランスがとれてはじめて完璧な球(全体)になる。

うねった形で描かれているのは
この世界には時間の流れがあり常に動いていると
考えられているから。

陰を極めると陽になり陽を極めると陰になる。
陰のなかのほんの少しの点が陰を陽に変える。
陽のなかのほんの少しの点が陽を陰に変える

この球の回転を早めれば
白と黒がまざりあい灰色にしか見えなくなる。
時の流れの中で物事をとらえていけば
白と黒の境界線は曖昧なのだ。

まざりあったとしても純粋でいるのには
その真理を知り得ることで叶うのではないか。
とことんまざりあって陰も陽もなんだかわからなくなって
ただひたすらにわたしたちが存在するだけで
美しく完璧であることを信じ生きる。
それが純粋であるということなのでは。

純粋であるひとが増えていけばきっといつかわたしたちは
もともと持っていた想念の力を取り戻す。(思い出す。)
花や子どもたちが感じている世界をわたしたちも
感じられるのだ。

耳を澄まして ココロを清まして。

写真&執筆 村上志乃


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