完璧だからこその完成を楽しもう。

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もうずいぶんと昔に見た「赤い薔薇ソースの伝説」という
ミニシネマ的な映画の中に印象的なシーンがあって
(かなりシュールな内容なので映画自体はあまりオススメ
できないのですが、、、)
その家の料理人がかなしい気持ちで涙しながら料理をつくると
その料理を食べるひともかなしい気持ちになり
みんなが泣きながら食事をする。
料理人がなんだか不思議な気持ちで料理をつくると食べるひとみんなが
わけもわからず不思議な気分になって食事をする、、、
という場面。

花もそうだが、創るものすべてにおいて、料理も音楽も書も絵も
創り手そのひとのおもいをまとう。
そして食べるひと見るひとそれら受け取る側のおもいもはらみつつ
創り出されたものは進化していく。
ここでいうひと、とはその創り手や受け取る側
個人を指しているのではない。
個人を超えたところにある。個人を超えない限りおもいのシンクロは
ありえないだろう。

個人を超える、、、?

簡単なことだ。
おかげさまに感謝をすること。
目の前の一瞬一瞬に選択する意識を持つこと、愛をこめること。
いまここにすべてがあることを知ること。楽しむこと。

簡単なことなのに
なかなかできてないなあ、、、。

先の記事でも触れているが
花をいけるときのわたしは
花、花器、場、その場を共有するものたちすべて(見るひとも含め)の
インスピレーションを融合した未知なる何かとなる。
個人を超える瞬間であり
時空を超えるすべての瞬間の統合だ、と感じている。
そのすべての瞬間には受け取る側のすべても含まれる。
いけた花を見るひとがいてそれらはまた新しく完成するのだ。

ピカソの言葉に、作品は「完成した後も、それを見る人の
精神状態によってなお変わり続ける。絵画作品は見る人によって初めて
生命を与えられるのだから、 それは当然のことだ」というのがある。

これは(絵画)を外しても成り立つ言葉だろう。
ただ、花をいけることと絵画作品が大きく違うのは
存在するだけで美しく完璧な花はもうすでにいける前に完成している
ということだ。
わたしたちが手を加えるまでもない。
だがわたしたちは根っこから切りはなしてしまった花をいける。
いけさせていただく。
切り花はもう花として完璧ではないのか?
わたしはそれでも完璧だ。と感じている。
存在そのものの完璧さは失われることはないのだ。
だからこそ
また新しい完成にたどり着くまで真摯に花と向き合い
自分と向き合い個人(自分)を超え花となり
見るひととともにその完成までの過程をシェアする。
シェアがシンクロを呼び覚まし
シンクロがシェアを色濃くする。

ここにきてまさに今感じたのだが
花も絵画も同じだ!と。違わないのだ!
絵画になる前にその絵は描き手の内に存在している。
それはもうその時点で完璧に完成している。
その完璧な絵を実際に描いて絵画として完成させ見られることで
また別の完成に変化していく。

根っこのある花と描く前の絵は同じではないか、、。
花は目に見えるから、触れられるから、例えとして同じというのには
違和感を感じるかもしれない。
でもそれが
花が存在する意味のようにも思える、、、言葉で説明するのは
今のわたしにはまだまだ難しい。

これは、わたしたち人間にも言えることではないか。
もともとひとつで完成されていた完璧な全体から
個人に分けられ悠久の旅に出たわたしたち。
存在そのものは個になったとして完璧には変わりない。
それを知ることがある意味わたしたちを
もうひとつの完成へと導いていく。
そう、完成はひとつではないのだ。これが完成。と決めなくていい。
その時々で完成は変わる。
まして、受け取る側によって変わってしまうのだから
誰がなんと言おうとこれが完成。と決めてしまうか
受け取り側が感じる完成を楽しんでもらおう。とゆるくいくか。
どちらでもその時々の気分でいいのだと思っている。

星の数ほどある完成を楽しんでいこう。
どう完成してもよいのだからどれも完璧ではないのだから。
その過程をシェアし合うことに意味があるのだ。

皆さんはどんな完成を楽しみますか?

わたしはやっぱり花とともに
いまここを楽しみ(楽しむには、憂いも、よろこびも、かなしみも、
怒りも、、すべて含まれています)
愛に満ちる一瞬一瞬を完成としていきます。
なかなかできないからこその過程を愛おしみ
そんな自分を愛してやまない毎日を。

写真&執筆 村上志乃


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