自分自身と深く繋がることができたら
(実際 ここまでが果てしなく遠く感じられる、、、、。が
めでたくそうなったら!時間がどれくらいかかったとしても
決して長くは感じないのだろう。)
次は自分を超えていく過程を楽しむのだ。
わたしたちが思っている自分というのものは
外側の世界が基準となり形成されている。
経験や概念やエゴを通してしか自分を感じることができない。
無意識に限界や枠をつくり、言動を制限していく。
そのくくりをすべて外し
過去も未来も、感情さえも手放した時
わたしたちは誰もが唯一無二の存在であり無限の可能性を持つ
世界の一部であり全体であることを理解するのだ。
その世界は、自分が自分であり
自分が自分ではなく、
何ものでもあり、何ものでもない世界。
わたしもまだクリアに思い出せていない世界なので
言葉で説明するのは簡単ではないし
表現しようとすればするほど離れていってしまう。
その世界には愛だけしかない。
愛だけがある世界。
おとぎ話しのように聞こえるひともいるだろう。
でも。わたしはそう信じている。
愛しかない世界を思い出す時がやってくることを
確信しているのだ。
思い出した瞬間またたくその世界になるだろう。
理由も根拠もなくただひたすらに信じている。
花を見ていると、花に触れていると
その確信はことさらに色濃くなる。
花たちは愛の世界を生きている。
植物的本能に導かれながら利他の精神による
この世界全体を快くするための活動を目的として植物は存在する。
その植物たちに習えばわたしたちも愛の世界の住人に。
今までの自分(自分と思っていた自分)の殻を破り
新しい世界へと羽ばたく。
それはサナギが蝶に生まれ変わることに似ている。
つまりアセンションだ。
(ここらへんの話しはまた改めて)
植物たちはいつもわたしたちに寄り添いいざなっている。
愛の世界に。
その誘いに今、のらないわけにはいかないのだ。
moonStruck花遊び(教室)では
無心となり花と遊んで(または花に遊んでもらって)
花を前に純粋な自分をさらけ出し、自分自身と深く繋がり
結びついたところで(ここまでくると、花と自分に境界がない)
いよいよ自分を超えていくのだ。
すっかり、そしてあっさりと。このあっさり。がポイント。
まるで前からそうなることが決まっていたかのようにあっさりと
軽々と、だ。
要領はいたって簡単。花を前に純粋であること。
ただただ目の前の花を愛しんで花をいけるだけ。
そのシンプルな行為こそが、サナギが蝶になる予行練習と
わたしはひそやかに思っている。
花はセンスでいけるのではない。
センスでいけているうちは、いつまでも自分は超えられない。
花にも遊んでもらえない。
花の美しさに降参し、花に完全にお任せすること。
そうすれば、そうあっさり、そしてすっかり、
自分のセンスを超えた花をいけるのだ。
まるで自分がいけたのではないくらいの 美しく完璧な花を。
人生もまた然り。
自分を超えて美しく完璧な毎日を
植物たちと愛の世界で。
写真&執筆 村上志乃