植物たちのようにリラックスした毎日を送るには。その3

Share on FacebookTweet about this on TwitterShare on Google+

植物たちは自分がどんな名前か知らない。
人間が勝手につける名前だ、きっと興味もないだろう。
名前が何であろうとその生き方に、何の影響も受けない植物たち。

植物たちは名前の代わり(というのは語弊があるかもしれないが)
「間」(ま)をまとっているのだと思う。
それは夢と現の(あいだ)、存在と想念の間、永遠と一瞬の間、、、、。
そのまとっている「間」が悠然とした振る舞い、印象を
わたしたちに示している。

ひとは名前があることでたくさんのよろこびとたくさんの苦悩が
背中合わせになる。名前の背景にある役割を演じることで。
名前(氏名のほかにお兄ちゃんとか弟とか長女とか末っ子とか、
妻、母親、恋人、社長、友だち、、、、
そもそも名前をつけるのはわたしたち人間だけだということからして
すでにこの美しい世界と隔てられていると
感じてしまうのはわたしだけだろうか。
男、女、日本人、外国人、自分、他人、、、星の数ほどある
名前の役割によってあらゆる言動が制限されることになる。
制限は差別や格差を生み出し、相容れない状況が積み重なっていく。
役割を果たそうと真面目に取り組めば取り組むほどに
その名前にがんじがらめになることも。

例えば。わたしは村上志乃。女。50歳。
経営者でありフローリストであり表現者だ。
そのどれもがわたしなのだけれど、時としてよくよく
わからなくなることがあった。
「村上志乃はこう望むけど、経営者としてはどうなの??」
「表現者というよりお花屋さんでしょう?」
名前同士が分裂し、主張しはじめる。

幸いにも今、そういう傾向はなくなりはじめた。
日々、植物たちに教えてもらっているから。
わたしはいつでもわたしだ。
そして。すべての存在が、すべての想念が、わたしなのだ。
そうすると、今度はわたしが消える。

花をいけていると、わたしがいけているのではないのだなあ
と感じる。村上志乃はいなくなるのだ。
存在そのものはなくなっていないから、村上志乃という名前が
なくなるのだと思う。花は誰がいけたとして美しいのだから。
村上志乃という名前は必要ないのだ。
名前がなくなることでわたしたちは(花とわたし)は限りなく
距離がなくなりひとつになる。
わたしは花になる。花はわたしになる。

そこにはもはやすべての名前がなくなる。
女であること、50歳、フローリスト、、、、、。
あらゆる役割を外した存在を介し、花はいけられる。
いけさせていただくのだ。
ごはんと同じ、「いただきます」のおもい。

すべての名前がなくなる、、、それは覚醒のようでもある。
特別な神秘体験がないとしても日常の中に覚醒はある。

わたしが感じる覚醒とは、まずそのものと距離を置いて、
その距離を感じ、
観察し、観察で感じたことを味わいつくし、
浄化させ、自分の一部となり、全体となり、
ひとつになる一連の流れ。
その距離感こそが「間」であり
花をいけるのに、毎日をリラックスして生きるのに
大切な要素のひとつなのだ。

名前や役割、演じている何かに違和感を感じたり、
行き詰まったとしたら
植物たちのように「間」を意識してまとってみることを
おすすめします。
本来わたしたちも、植物たちのように生きられる。
無意識に誰もが「間」をまとっている。
無意識に意識を向けることで、ただそれだけで
わたしたちを取り巻く世界は劇的に変わっていくのだから。

写真&執筆 村上志乃


Share on FacebookTweet about this on TwitterShare on Google+

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする